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時間逆行通信の原理/1.力学的状態と様相的状態

Chanel Guillotine (Breakfast Nook), 1998. Tom Sachs
Chanel Guillotine (Breakfast Nook), 1998. Tom Sachs
 

殺人罪に問われて独房に収監されている被告ムルソーの運命について考察してみましょう。ここでは簡単のために有罪(死刑)か無罪かの陪審評決が量子コイントスによって下されるものとします。また、ムルソーの処刑あるいは釈放という事象は、全体状況を観察する観察者(いまここの私、実存)を頂点とする過去光円錐の中に含まれるものとします。


ムルソー処刑

図1のように、ムルソーの処刑を確認した観測者からみれば、死刑評決の量子コイントスを頂点とする未来光円錐の内側のムルソーは処刑されることが確実だったといえます。一方、図2のようにムルソーの釈放を確認した観測者からみれば、無罪評決の量子コイントスを頂点とする未来光円錐の内側のムルソーは釈放されることが確実だったといえます。


ムルソー釈放

ただし、図1と図2のどちらの状況であっても、評決の量子コイントスを頂点とする未来光円錐の外側のムルソーは処刑されるか釈放されるか不確定だったといえます。ですから、量子コイントスを頂点とする未来光円錐面を境界として処刑か釈放かに関する可能性が収縮したといえます。このように、評決を頂点とする未来光円錐面を境界としてムルソーの運命は劇的に変化しますが、だからといって、その未来光円錐面において評決に起因する何等かの力学的作用が独房内のムルソーに加わったわけではありません。つまり、ムルソーの力学的状態の変化はその未来光円錐面と無関係だが、ムルソーの様相的状態(ムルソーの運命)はその未来光円錐面で大きく変化するといえます。なお、図1のように観測者(いまここの私、実存)を一々描き込むと図が煩雑になるので、今後は図2に示したNow*Here 記号(筆者提案)を使ってそれを表すことにします。


ムルソーの様相的状態は図1や図2のように時空図中(物理世界の中)の状態として示せますから、ムルソーの物理的状態を完全に記述ためには、力学的状態だけでは不十分で可能性や必然性に関する様相的状態も同時に記述する必要がありそうです。ところが、従来の物理学は、ムルソーの様相的状態には一切言及しません。その理由は、評決(量子コイントス)を原因としてムルソーが処刑か釈放かのいずれかの結果に至るという因果的変化を力学的状態の変化として問題なく記述できるからです。また、物理世界が主観と独立した客観的世界だと考えている唯物論者や物心二元論者は、観測者(いまここの私、実存)を物理世界の主要な要素に組み入れることに激しく反発するでしょう。だがしかし、ミクロ系に目を転じれば、彼らの頑な態度も揺らぎ始めます。量子現象が本源的に確率的であるという事実は、量子状態が力学的に記述されるだけでなく様相的にも記述されべき状態であることを意味しています。また、量子力学の観測問題を解決するためには、測定対象の状態の因果的変化を様相的状態の変化として記述する必要があると考えられます。



予知の歴史/5.時間逆行通信

stranger
"The Stranger" by Albert Camus - 1967 - Dir. Luchino Visconti

時間逆行通信は因果律に反するから不可能だといわれ続けてきました。しかし、もし送信事象と受信事象とが非因果的な相関関係にあるような通信が可能なら、因果律に反しない時間逆行通信はありえます。送信事象と受信事象とが非因果的な相関関係にある状況とは、図6のように「通信の原因事象」から出発した因果系列が途中で枝分かれしてそれぞれの枝(因果系列)の末端に送信事象と受信事象が位置するような状況です。この場合、送信事象と受信事象とは、同一の「通信の原因事象」と因果関係にあるため相関関係になりえますが、お互いは直接的な因果関係にありません。


fig6

図6において、送信が送信者Aliceの自由意志に基づいて選択されるとすると、その選択よりも前に通信の原因が確定しているのはパラドックスのようにみえるかもしれません。しかし、それはパラドックスではありません。なぜなら、一般に「自由意志とよばれるユニークな選択機能や価値基準」は非決定論的に形成されますが、「自由意志による選択」は決定論的に実行されるからです。つまり、図6の「通信の原因事象」が確かに原因事象であるといえるなら、通信の選択に関する送信者Aliceの自由意志(ユニークな選択機能や価値基準)は、彼女が通信の原因事象を頂点とする未来光円錐の内側に入る前に確立していたといえます。


話が抽象的すぎるので、カミュの小説「異邦人」のシチュエーションを拝借して思考実験をしてみましょう。殺人罪に問われ独房に収監されている被告ムルソーは、自分が死刑なのか無罪なのかを知るために、判決言渡し後の未来にいる恋人マリーから時間逆行通信を使ってその判決内容を受信するという場面を考えます。(どうやって独房に時間逆行通信の受信機をセットしたかについては、ここでは問わないことにします。)さて、判決の言渡しは陪審員の評決に基づいていますから、通信の原因は少なくともその評決まで遡ることができます。ここでは、簡単のためにその評決(死刑または無罪)が量子コイントスによって決められたとします。そして、その量子コイントスが通信の本源的な原因事象であるといえるなら、「ムルソーとの約束を守る」というマリーの自由意志(ユニークな選択機能や評価基準)は、彼女がその量子コイントス(通信の原因事象)を頂点とする未来光円錐の内側に入る前に確立していたといえます。図7のように、マリーが約束を守ることが確実だからといって、彼女が自由でないとはいえません。なぜなら、彼女が自由だということは、「非決定論的に培われたユニークな選択機能や価値基準(自由意志:ムルソーへの愛)」に基づく「決定論的な行為(ムルソーと交わした約束の履行)」が妨げられないということだからです。


fig7

本節の議論からつぎの結論が導かれます。
・「因果律に反しない時間逆行通信は不可能だ」とはいえない。
・「自由意志と決定論のパラドックスに陥らない時間逆行通信は不可能だ」とはいえない。
したがって、「時間逆行通信は不可能だ」という常識には説得力のある根拠が何もありません。そこで、私は「時間逆行通信の発明は真摯に取り組むべき基礎物理学的課題だ」と確信するに至りました。


予知の歴史(完)



予知の歴史/4.無相互作用通信

einstein-dragon
Is it spooky enough?

通信が成立するためには、送信側と受信側とを近接作用によって結びつける音や光といった通信媒体が必要だというのが常識です。しかしその常識に反して、通信媒体を介さない通信がごくありふれた光学装置を使って実現可能です。


MZ3

図3のように、マッハツェンダー干渉計に光を入力した場合、上光路と下光路の光路差をゼロにすれば、上光路経由の出力状態と下光路経由の出力状態とが干渉して、出力光は検出器D1では検出されません。


一方、図4のように上光路にシャッターSHを挿入した場合、検出器D1では入力光の4分の1が出力光として検出されます。なお、各図における光路を示す赤線の濃淡はその光路を通る光の強度の強弱を表しています。


MZ4

そこで、以上の効果を地震警報システム(通信的予知システム)に利用すれば、図5のように震源地で地震を感じたAliceは上光路にシャッターSHを挿入することにより地震の発生を遠方にいるBobに伝えるることができます。


MZ5

図5の地震警報システムでは、AliceがBobに対して地震発生を通報している場合は、上光路がシャッターSHで閉鎖されているため、Alice-Bob間の上光路に通信媒体(光)は存在しません。また、地震が発生しない場合は、上光路が開通しているため、干渉によりビームスプリッタBS2・検出器D1間に通信媒体(光)は存在しません。したがって、この地震警報システムは、送信側と受信側とが相互作用(近接作用)によって結ばれていないという意味で、無相互作用通信システムだということができます。つまり、次のような反事実的条件文に従う非力学的な(様相的な)情報伝達が可能だということです。


もし、地震が起こらず、Aliceが上光路にシャッターSHを挿入しなかったなら、Bobの検出器D1における光の検出はなかっただろう。


予想される反論は、「ビームスプリッタBS2・検出器D1間の光を干渉によって完全にゼロにするのは事実上不可能だから、相互作用は残る」というものです。しかし、マッハツェンダー干渉計に入力する光をたった1個の光子だけに限定した場合でも非力学的(様相的な)な効果が成立することがエリツール・ベイドマン爆弾テスターの実験によって実証されているので、その反論は通用しません。


なお、この無相互作用通信では送信事象と受信事象とが因果関係にあるので、その通信速度が光速を超えることはありません(∵相対論的因果律)。



予知の歴史/3.計算的予知と通信的予知

Hermann Minkowski
Hermann Minkowski

予知とは、未来の事態の情報を先取りすることです。そして、何が未来で何が過去なのかは、いまここの私(予知者、実存)を基準として規定されます。そこで、予知に関する全体状況は、いまここの私(予知者、実存)を中心としたミンコフスキー時空図によって示されます。例えば、スーパーコンピュータを使った台風発生予測の全体状況は図1のように示すことができます。


計算的予知

図1のように、既知データと予測アルゴリズムと計算手段を使った予知を「計算的予知」と呼ぶことにします。なお、科学的な予知には計算的予知以外に通信に基づく予知もあるので、そちらを「通信的予知」と呼ぶことにします。通信的予知の例としては、図2に示すような地震警報システムを挙げることができます。これは、遠方の震源からの地震発生の第1報をいまここの私(予知者、実存)が高速の通信手段を使って受信することにより、その受信地点に地震の揺れが到達する前に揺れを予知するシステムです。(※ 実際の地震警報システムは、通信的予知システムと計算的予知システムとが複合したシステムになっています。)


通信的予知

計算的予知でも通信的予知でも、「過去の事態(原因事態)」から導いた「未来の事態(結果事態)」の情報をいまここの私(予知者、実存)が先取りするという点では違いはありません。そこで、予知される未来の事態(結果事態)に対する原因事態が時空上の1点の原因事象だとみなせる場合、科学的な予知が成立するためには、いまここの私(予知者、実存)はその原因事象を頂点とする未来光円錐の内側に位置しなければなりません。



予知の歴史/2.物理学

Archimedes
"Archimedes" by Niccolò Barabino

紀元前500年頃に、中国では諸子百家が活躍し、インドでは仏教が成立し、パレスティナではイザヤなどの預言者があらわれ、ギリシャでは三大哲学者(ソクラテス・プラトン・アリストテレス)が輩出して、後世の諸哲学、諸宗教の源流となりました。哲学者カール・ヤスパース(1883年-1969年)は、この世界史的、文明史的な一大エポックを枢軸時代(Axial Age)と名付けました。


予知の歴史という観点に立った場合、枢軸時代において特筆すべき出来事は、古代ギリシアにおける自然哲学の勃興だといえます。中東やインドや中国では預言者の言説や神話的世界観に表現された天下り的な「神の原理」について思弁を重ねたのに対して、ギリシアでは「自然の原理」の解明に力点を置く自然哲学が発展しました。そして、偉大な数学者であり発明家でもあったアルキメデスが定量的な実験に基礎を置く物理学を創始しました。


古代ギリシアに灯った物理学の火種は、ルネサンスに至って力強い炎となりヨーロッパで燃え盛りました。レイ・カーツワイルがいうところの収穫加速の法則が物理学の場において発動したといえるかもしれません。そして、ニュートン力学の大成功により、「もし宇宙の全ての原子の運動および位置が分かるならば未来は完全に予測できる(→ラプラスの悪魔)」という大胆な主張がなされるに至りました。


二つの世界大戦にまたがる時代のヨーロッパにおいて、現代物理学の二大理論である量子力学とアインシュタインの相対性理論が誕生しました。量子力学は量子現象の本源的な確率性を明らかにすることにより、また、相対性理論は時空概念や因果概念を刷新することにより、それぞれが予知の歴史に新たなページを書き加えました。



予知の歴史/1.経験則と神託と預言者

stonehenge

与謝蕪村
菜の花や 月は東に 日は西に
 

地を這うものも天翔けるものもそれぞれにリズムを刻んでいます。太古の人々は、繰り返し観察される事象から経験則を導いて、日を読み月を読み季節を読むすべを身につけました。動物は危険な気配を本能的に察知する能力において人間よりも優れていますが、まだ気配すらない未来の危険を予測して事前に対処できるのは人間だけです。したがって、予知の歴史は、人間の歴史であるともいえます。普遍的な自然法則という概念がなかった古代においても、農耕文明の発展により正確な暦や各種の計測・設計・製造技術への要求が高まり、天文学や数学や工学が発展し、それに伴って予測の技術も発達しました。とはいえ、そのような経験則に基づく予測だけでは経験したことがない事態には対処できません。事実、人々の生活は気象の激変や疫病の流行などの災厄に翻弄されてきました。そのような困難に直面したとき、人々は宇宙を統べる者すなわち神を想定しその神に向かって助けを求め、事態が好転すれば、神のご加護だと喜び、事態が悪化すれば神に見捨てられたと嘆きました。人々の神への要求は次第にエスカレートして、将来の吉凶や正しい選択のお告げを求めて、焼いた骨や神がかりとなった巫女を受信機として神託を受信するようになりました。そして、いつしか預言者が現れ、神との通信を一手に引き受けるようになりました。



新しい世界像/5.実存主義的様相解釈

Albert Camus ( 1913-1960)

Albert Camus (1913-1960)


シュレーディンガーの猫の実験において、観測者が箱(密室)の蓋を開けて猫の死体を発見し、さらに、その検死によって箱の蓋を開ける10分前に猫の鼓動が止まったと推定されたとします。その場合、反事実的条件文を用いれば


「箱の蓋を開ける10分前に猫の死という事象が起きなければ、箱の蓋を開けた後にそのような検死結果は得られなかったはずだ」


といえます。そして、さらなる科学捜査によって猫の死因は青酸ガスの吸入であり、その青酸ガスの放出原因は、ガイガーカウンターによるアルファ粒子の検出だと断定されるでしょう。つまり、猫の死や青酸ガスの放出やアルファ粒子の検出という事態は科学捜査によってすべて歴史的事実として認定されます。ところが、ガイガーカウンターで検出される前のアルファ粒子の状態は存在が確定した状態であったといえる確証はありません。なぜなら、全く同じ初期状態から出発してもアルファ粒子が検出されない場合があるからです。とはいえ、つぎのような反事実的条件文は真であるはずです。


「ラジウム塊から放出されるアルファ粒子の経路上にガイガーカウンターを置くという事象が起きなければ、アルファ粒子の検出・非検出という確率事象は起きなかったはずだ」


そこで、この殺猫事件の実行犯は、ラジウム塊の前にガイガーカウンターを含む殺猫メカニズムをセットした人物だということになります。さて、ラジウム塊の前にガイガーカウンターを置くという行為にも「もしその事象がなければ」といえる原因事象があるはずです。そして、その原因事象の原因事象というように遡っていけば、最後にはそれ以上遡ることができない本源的な原因事象(量子力学的確率事象)にたどり着くと考えられます。したがって、


「ラジウム塊の前にガイガーカウンターを置くことを確定する本源的原因事象が起きなければ、アルファ粒子の検出・非検出という確率事象は起きなかったはずだ」


といえます。そして、アルファ粒子の検出事象が歴史的事実だとすれば、ガイガーカウンターへの経路上のアルファ粒子の状態は「有ると無いとの重ね合わせ状態」ではなかったといえます。なぜなら、ガイガーカウンターは「有ると無いとの重ね合わせ状態」を有るか無いかのどちらかの状態に確率的に変換する(収縮させる)量子力学的なメカニズムではないからです。そこで、つぎのような反事実的条件文は真であるはずです。


「ラジウム塊の前にガイガーカウンターを置くことを確定する本源的原因事象が起きなければ、ガイガーカウンターへの入射経路上のアルファ粒子の状態は、ガイガーカウンターにおいて確率的に検出・非検出される状態にはならなかったはずだ」


この「ガイガーカウンターにおいて確率的に検出・非検出されるアルファ粒子の状態」とは、「有るか無いかの混合状態」にほかなりません。ゆえに、


「ラジウム塊の前にガイガーカウンターを置くこと(アルファ粒子測定の選択)を確定する本源的原因事象を頂点とする未来光円錐の内側におけるガイガーカウンターへの入射経路上のアルファ粒子の状態は、有るか無いかの混合状態である」(→実存主義的様相解釈)


と推定できます。


反事実的条件文は、過去形で記述された現実(歴史的事実)と可能性とについて条件文です。そして、何が過去で何が未来なのか、あるいは、何が現実(歴史的事実)で何が可能性なのかは、いまここの私(実存、観測者)を基準として規定されます。したがって、反事実的条件文が現実の物理世界の構造に関する記述だとすれば、いまここの私(実存、観測者)は物理的世界像(現実の物理世界の構造に関する記述)の中心(基点)に位置するといえます。


新しい世界像(完)


【補足】このシリーズ記事では、毎回冒頭に関連する歴史上の人物の肖像を掲げてきました。しかし、この最終回に限っては適当な人物が見当たりませんでした。そこで、筆者と思想的に近いと思われるアルベール・カミュの肖像を掲げることで、この場を借りて、いまこの世界に台頭しつつある偏狭なナショナリズムや選民思想への「反抗」の意志を表しました。



新しい世界像/4.歴史世界

Julius Caesar 100 BC-44 BC

Julius Caesar (100BC-44BC)


我々は、カエサルと一緒にルビコン川を渡った経験がなくても、あるいは、生きた三葉虫を触った経験がなくても、「内乱記」を読んだり、あるいは、化石を観察したりすることによって、カエサルがルビコン川を渡ったという事態や三葉虫が古生代の海に生息していたという事態を歴史的事実として受け入れています。また、我々は密室殺人事件の被害者の死体を検死することにより、例えば、その被害者が10時間前に殺されたという事態を歴史的事実として受け入れることができます。同様に、我々は青酸ガスを吸って死んだ「シュレーディンガーの猫」に関する精密な検死結果にもとづいて、例えば、観測者が箱(密室)を覗き込んで猫の死体を発見する10分前に猫の鼓動が止まったという事態を歴史的事実として受け入れることができます。そして、


シュレーディンガーの猫の死が歴史的事実だとすれば、厳格なコペンハーゲン解釈は因果律と矛盾することになります。


なぜなら、厳格なコペンハーゲン解釈がいうように箱の蓋を開く前の猫の状態が「生と死の重ね合わせという一つの状態」であったとすれば、その後における死体の発見によって、過去に遡るかたちで猫の状態が「生と死の重ね合わせという一つの状態」から全く別の「死という一つの状態」に変化したことになるからです。また、


シュレーディンガーの猫の死が歴史的事実だとすれば、多世界解釈は我々の現実世界を反映した解釈ではないことになります。


なぜなら、猫の死が歴史的事実だとすれば、そのようなユニークな歴史的事実の総体としてのユニークな歴史世界こそが我々の現実世界だといえるからです。


ではなぜ、厳格なコペンハーゲン解釈や、多世界解釈のような壮大な欺瞞がまかり通ってきたのでしょうか。それは、「自然は決定論的な方程式によって記述でき、その方程式に対応する客観的実在が観測者(いまここの私、実存)と無関係に存在する」という信念に基づいてガリレオやデカルトやニュートンらが描き上げた世界象に我々が囚われてきたからではないでしょうか。

冷静に考えれば、数学による自然の記述には明らかに限界があります。


数学の女神は、可能性の泉を汲み尽すことができても、その可能性の中から現実をすくい上げて歴史を創ることはできません。


ルビコン川を前にしたカエサルが投げた賽が、量子サイコロであったとすれば、その賽投げこそが「ルビコン渡河」の本源的な原因事象であったといえます。すると、その量子賽投げ事象を頂点とする未来光円錐の内側の世界は「ルビコン渡河」の実行が確定した世界だといえます。ゆえに、その未来光円錐面を時空的境界として世界の歴史的様相が変化したのだといえます。私は、このような量子力学的確率事象を基点とした相互作用によらない歴史的様相の変化こそ、従来の物理学が見逃してきた本質的な自然発展の在り方だと考えています。例えば、シュレーディンガーの猫の思考実験におけるアルファ粒子の状態(歴史的様相)は、図3に示すように 屮▲襯侫[鎧丗定選択の原因事象を頂点とする未来光円錐面」および◆屮▲襯侫[鎧劼慮―仍象またはその非検出事象を頂点とする未来光円錐面」において変化すると考えられます。そのように考えれば、いやむしろそのように考える場合に限って、箱の中の猫の状態は生と死の重ね合わせ状態ではなく生か死かのどちらかの状態となり観測問題は解消します。



fig

図3



新しい世界像/3.私とあなたと彼、彼女

Gottfried Leibniz (1646-1716)

Gottfried Leibniz (1646-1716)


非決定論的な物理学では、第一義的な観測者を「いまここ」という時空上の1点にとります。ここで留意すべきことは、その1点が物理法則から導かれる1点ではなく心的表象としての1点だということです。なぜなら、意識を創発する物理的メカニズムが脳であるとはいえても、「いまここ」という意識が脳内の特定の時空点にあるとはいえないからです。ライプニッツは「風車小屋の思考実験」によってそのことを的確に説明しました。


”ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体をおなじ割合で拡大し、風車小屋のなかにでもはいるように、そのなかにはいってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分がたがいに動かしあっている姿だけで、表象について説明するにたりるものは、けっして発見できはしない。”

- ライプニッツ 『モナドロジー』(1714年) 第17節、清水・竹田訳


「物理世界は私の物理世界である」ならば物理世界そのものが表象なので、その物理世界の基点としての「いまここ」という表象は物理法則に先立つ本源的な表象であるといえます。


物理世界が私の物理世界であり表象にすぎないという考えは一見独我論に通じるようにみえます。しかし、「なぜ、私は私なのか」という哲学の問いに示されるように、そもそも私という認識は他者という認識と一組になった認識です。つまり、物理世界という表象において「私」が「私」であるためには他者の存在が不可欠なので、物理世界という表象についての記述である科学(非決定論的な物理学)が独我論に陥ることは原理的にありえません。そこで、非決定論的な物理学において観測者(いまここの私、実存)がどのような地位を占めるのかを考える場合、私と他者との関係を明確にする必要が生じます。


「あなた」とは、「いまここの私」と通信状態にある他者です(図2参照)。



i_you_he_she

今このブログを書いている「いまここの私」がブログの読者を「あなた」と呼ぶことができるのは、インターネットという通信媒体を介して「いまここの私」と「あなた」とが通信状態にあるからに他なりません。一方、


「いまここの私」と通信状態にない他者は「いまここの私」によって「彼」や「彼女」と呼ばれます


非決定論的な物理学では、それまでの決定論的な物理学において不純物のように扱われてきた観測者(いまここの私、実存)が基本概念へと昇格するので、実存に付随する可能性や時制や人称といった様相概念もまた物理の基本概念として浮上してきます。



新しい世界像/2.私の物理世界

Ludwig Wittgenstein(1889-1951)

Ludwig Wittgenstein (1889-1951)


ポール・デイヴィス「時間について」より

(引用開始)  アインシュタインでさえ、生涯の終わりに近づいたとき、この「今」の問題が「彼を大いに苦しめている」と告白したのだった。哲学者ルドルフ・カルナップとの会話で、アインシュタインは「『今』には何か本質的なものがある」ことを認めたが、それが何であれ、それは「科学の領域の外部」にあるという信念を表明した。  (引用終了)


アインシュタインが大いに苦しみながらも「今」という概念を科学の領域の外部に排除したのは、彼が決定論的な世界観(ガリレオのドグマ)に囚われていた証拠です。なぜなら、物理世界は決定論的な方程式によって十全に記述できると信じる決定論的世界観には、主観的な「今」が入り込む余地などないからです。しかし、現実の物理世界が非決定論的な世界であるなら、偶然性や時制(過去と未来の区別)といった観測者の存在を前提とした概念は科学の領域の内部にあるに違いありません。そこで、決定論的な世界観から非決定論的な世界観へと移るとき、それまで物理学において不純物のように扱われてきた観測者(いまここの私、実存)は物理学の基本概念へと昇格することになります。


物理世界において現に実感している私は、過去や未来の私ではなく、また、そこやあそこの私でもなく「いまここの私」です。換言すれば、現実の歴史世界の頂点(いま)かつ空間の中心(ここ)に、すなわち、図1に示すように歴史世界に対応する過去光円錐の頂点に「いまここの私」は存在します。そして、「いまここの私」とその前後にある「過去の私」や「未来の私」は、誕生から死へとつながる連続的な世界線を構成しています。このように、観測者(いまここの私、実存)やその世界線(生命線)は時空図上に具体的に示すことができます。なお、図1において観測者の世界線の幅が未来に向かって広がっていることは、この時空図が非決定論的な物理世界を表していることを意味しています。


lifeline

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがいったように「世界は私の世界である」なら、当然、「現実の物理世界」も「私の物理世界」であるはずです。そして、物理学が「現実の物理世界」を記述する学問であるなら、物理世界の第一義的な観察者として「いまここの私(実存)」を採用することは理にかなっています。「ちょっと持ってくれ。宇宙の歴史からみれば私やあなたの人生など一瞬の出来事にすぎないのだから、物理世界の第一義的観察者としては仮想的な超越者(あるいは神)を採用すべきであって「いまここの私(実存)」を採用するのはまずいだろう」と反発する読者がいるかもしれません。しかし、人類が存在しなかった時代という歴史世界も所詮「私の物理世界の一部」なのですから、そのような反論は論理的に成り立ちません。



新しい世界像/1.ドグマからの脱却

Galileo

Galileo Galilei (1564-1642)


「自然という書物は数学の言葉で書かれている」というガリレオのドグマは、最初から万人に受け入れられたわけではありません。ガリレオの死から4年後に生まれたゴットフリート・ライプニッツは、物理的世界には数学的な必然的真理(理性の真理)だけでなく物理世界特有の偶然的真理(事実の真理)が存在することを強調しました。さらに、ライプニッツの死から8年後に生まれたイマヌエル・カントは自然の決定論的因果性を超える自由の事実(ライプニッツのいう〈事実の真理〉)の存在を認め,これを神,不死とならんぶ道徳のための要請としました。とはいえ、ガリレオのドグマを思想的基盤とするニュートン力学がもたらした科学技術の目覚ましい発展(科学革命)の前にライプニッツやカントらが描いた非決定論的な世界像は次第に色あせ科学的な世界像として顧みられなくなっていきました。


神聖なガリレオのドグマに最初に動揺を与えたのは、自然現象が本質的に不可逆であることを保証する熱力学第二法則の発見でした。もし、ガリレオのドグマが正しくて自然現象が決定論的な(時間反転に対して不変な)方程式によって十全に記述できるなら、自然現象は本質的に可逆なはずです。ところが我々の肉体を含め身の回りの多くの物事は不可逆に変化していきます。例えば、グラスに浮かべた氷はやがて溶けますが、水が自然に氷と温水に分かれることはありません。熱力学的な不可逆性は、現象の先後関係を規定しています。そして、先後とは観測者の意識そのものです。つまり、熱力学第二法則の発見は、物理世界が人間の意識とは無関係に存在し決定論的に記述できるというガリレオやデカルトやニュートンらによる世界観に疑問を投げかけました。


量子力学の登場によって、ガリレオのドグマはいよいよ窮地に追い込まれました。量子力学の確率解釈によれば、量子的粒子に関する測定値は本質的な意味で確率的にしか予測できません。たとえば、1個の光子がビームスプリッタを透過して観測されるかそれとも反射して観測されるかは本質的な意味で確率的であって、予めどちらかに決定していたとはいえません。それでも決定論にしがみつこうとするなら、量子測定の測定値の分散に対応する多世界が存在し、それぞれの世界の観測者が異なる測定値を観測するという多世界解釈を受け入れざるをえません。しかし、我々が経験できる現実の物理世界はユニークな歴史を持つユニークな世界です。ですから、多世界解釈は現実に即した解釈ではなく、ガリレオのドグマ(決定論的世界観)を救うという不純な動機にもとづく意図的・虚構的な解釈だといわざるをえません。


近年における人工知能技術や脳科学の急速な発展は、心の哲学を科学の前面へと押し出しました。いままさに、意識や自由意志といった主観的な概念を扱える科学の新しい世界像が強く要請されています。仮想的なガリレオのドグマから脱却し、非決定論的に発展する現実の物理世界において観測者(いまここの私、実存)がどのような地位を占めるのかを明確にすべき時が来たのです。



ボーアの直観から実存主義的様相解釈へ

bohr

Is it crazy enough?


ニールス・ボーアはEPR論文への反論の中で、次のように主張しました。


【主張1】
「ある粒子とそれに関するある特定の測定を行うように調整された装置とは、いろいろな点で単一の系をつくっているのであって、もしも装置の御膳立が変えられたならばこの系もある本質的な仕方で変えられることになる。こうした理由から、問題の粒子と相互作用するはずの装置の御膳立を一緒に特定することなしに、粒子の状態について何らかの推論を行うことは許されない。」
(B.デスパニア「量子論と実在」より引用)


以上のボーアの主張はEPR相関を念頭においたものですが、その思想を単一光子の偏光測定にあてはめれば、つぎのように主張できます。


【主張2】
「ある光子とそれに関するある特定の偏光測定を行うように調整された偏光板とは、いろいろな点で単一の系をつくっているのであって、もしも偏光板の透過角度が変えられたならばこの系もある本質的な仕方で変えられることになる。こうした理由から、問題の光子と相互作用(吸収あるいは透過)するはずの偏光板の透過角度設定を一緒に特定することなしに、偏光板に到達する前の光子の状態について何らかの推論を行うことは許されない。」


だがしかし、当のボーアを中心としたコペンハーゲン学派において合意形成が図られた量子力学の解釈、すなわち、コペンハーゲン解釈では【主張2】に反するつぎのような主張がなされます。


【主張3】
「ある光子とそれに関するある特定の偏光測定を行うように調整された偏光板とは、光子が偏光板に到達する前においては別々の系として捉えられるのであって、もしも偏光板の透過角度が変えられたとしても偏光板に到達する前における光子の偏光状態が何らかの本質的な仕方で変えられることはない。こうした理由から、問題の光子と相互作用(吸収あるいは透過)するはずの偏光板の透過角度設定とは関係なしに、「偏光板に到達する前における孤立した光子の偏光状態は一定である」という推論を行うことが許される。」


EPR相関を念頭においた【主張1】が正しいなら、単一光子の偏光状態に関する【主張2】も正しいといえそうなのに、測定前の測定対象と測定装置とを別々の系として捉えるコペンハーゲン解釈(【主張3】)がなぜ採用されたのでしょうか。その理由は、【主張1】における「もしも装置の御膳立が変えられたならばこの系もある本質的な仕方で変えられる」という文の「ある本質的な仕方」とは具体的にどんな物理的状況を指すのかをボーア自身が示せなかったからでしょう。つまり、ボーアは「ある本質的な仕方」の存在を直観的に見抜いてはいたが、それが具体的にどんな物理的状況を指すのかが曖昧だったために、観測問題がつきまとうことを承知の上で道具主義的なコペンハーゲン解釈を容認せざるを得なかったのでしょう。


「もしも装置の御膳立が変えられたならばこの系もある本質的な仕方で変えられる」という【主張1】の文は、歴史的事実としての本源的確率事象を認める立場に立って、相対論的因果律を考慮するとつぎのように書き換えられます。


【主張4】
「装置の御膳立(測定装置の設定)の原因となっている本源的確率事象を頂点とする未来光円錐の内側における測定前の測定対象の状態は、その測定装置の設定の相違に応じて異なる。」


つまり、「ある本質的な仕方」に本源的確率事象と相対論的因果律が関係していることは明らかです。しかし、そのような理解だけでは測定前の測定対象の状態と測定装置の設定との定量的な関係が不明です。


測定装置設定の原因となる本源的確率事象を頂点とする未来光円錐の内側における測定前の測定対象の状態は、ボルンの規則と帰納法にもとづく次のような推論により特定することができます。


【推論】
1.ボルンの規則は、測定装置の設定(測定基底)に対応する測定値(固有値)の確率分布を与える。
2.ゆえに、測定装置の設定の原因となる本源的確率事象を頂点とする未来光円錐の内側における測定では、常に、測定値の確率分布がボルンの規則に従う。
3.そこで帰納法を適用すると、測定装置設定の原因となる本源的確率事象を頂点とする未来光円錐の内側における測定前の測定対象の状態は、その測定基底に関する混合状態であり、その確率的混合の割合は一般化されたボルンの規則に従うといえる。


ただし、ここで「一般化されたボルンの規則」とは、測定時の測定対象の状態に関する確率則である現行のボルンの規則を、測定前の測定対象が採りえる状態に関する確率則(可能性の規則)へと一般化したものです。以上の【推論】が正しければ、【主張2】は次のように厳密な形に書き換えられます。


【主張5】
「ある光子(単一光子)とそれに関するある特定の偏光測定を行うように調整された偏光板とは、偏光板の透過角度設定の原因となっている本源的確率事象と相対論的因果律にもとづいて因果的かつ非力学的に(相互作用を介さずに)結ばれた単一の系をつくっているのであって、もしも偏光板の透過角度が変えられるならばその変化の原因に遡ってこの系も変えられることになる。こうした理由から、問題の光子と相互作用(吸収あるいは透過)するはずの偏光板の透過角度を一緒に特定することなしに、偏光板に到達する前の光子の状態について何らかの推論を行うことは許されない。ただし、偏光板の透過角度の設定に関する情報を持っているなら、帰納法に基づいた推論が可能である。すなわち、その偏光板の透過角度の設定に関する原因事象(本源的確率事象)を頂点とする未来光円錐の内側における測定前の光子の偏光状態は、その偏光測定基底に関する混合状態であり、その確率分布は一般化されたボルンの規則に従う。」


なお、【推論】や【主張5】によって示された解釈では、測定対象の状態の遷移面が未来光円錐面になっているため、その解釈は観測者の運動の仕方に依存せず、あらゆる観測者にとって一貫した記述が可能であるという意味でローレンツ不変です。


コペンハーゲン解釈や多世界解釈などの従来解釈は、「閉じた量子系の状態の時間変化はハミルトン演算子(ハミルトニアン)により一義的に決定される」という量子力学の公理(以下、自然決定論公理という)を前提としています。そのため従来解釈によれば、最初に水平偏光のみを透すH偏光板を透過した光子の偏光状態は、その単一光子系が外部系と相互作用しない閉じた量子系である限り、H偏光状態(純粋状態)のままです。ところが、【推論】や【主張5】によって示された解釈が正しいなら、測定前の光子の偏光状態は因果的な様相の変化に対応して相互作用を介することなく混合状態へと変化します。つまり、【推論】や【主張5】によって示された解釈では、自然決定論公理やその補助公理である射影仮説は成立しません。


【推論】や【主張5】に示された解釈が従来解釈に反する効果を予測する例として、第1のH偏光板を透過した単一光子の偏光状態が第2の偏光板によって測定される測定系について考えてみます。従来解釈が正しければ、もし第2の偏光板が垂直偏光のみを透すV偏光板であれば、測定対象の光子は第2の偏光板で確実に吸収されるはずです。しかし、【推論】や【主張5】に示された解釈が正しければ、光子が第2のV偏光板で吸収されるとは限りません。もし、光子が第1のH偏光板を透過する時空点において、第2の偏光板の透過角度を99.999%の確率で+45°に設定することが決まっており、かつ、0.001%の確率で+90°に設定することが決まっていれば、第1のH偏光板を透過した直後における光子の偏光状態は、一般化されたボルンの規則を適用することにより、49.9995%の確率で+45°偏光状態,49.9995%の確率で−45°偏光状態,0.001%の確率でH偏光状態,0%の確率でV偏光状態の混合状態だと考えられます。そこで、その後光子が第2の偏光板の透過角度を+90°に設定することを確定する原因事象(本源的確率事象)を頂点とする未来光円錐に入ったなら、その未来光円錐面で光子の偏光状態は遷移して、50.0005%の確率でH偏光状態,49.9995%の確率でV偏光状態の混合状態になります。つまり、上記の様に因果的様相が変化する特殊な事例では第1のH偏光板を透過した単一光子が第2のV偏光板も透過して観測される可能性がでてきます。


コペンハーゲン解釈は、現実世界を仮想的な神の視点(自然決定論公理)に立ったミクロスコピックな世界と現実の観測者の視点に立ったマクロスコピックな世界とに分けて捉え、それらの世界を繋ぐために射影仮説(観測公理)を要請しました。一方、多世界解釈は、現実世界を仮想的な神の視点(自然決定論公理)に立った多世界として捉え、射影仮説を排除しました。他方、【推論】や【主張5】によって示された解釈は、現実世界を現実の観測者(いまここの私,実存)が俯瞰する歴史世界として捉えます。そして、本源的確率事象を現実の観測者(いまここの私、実存)を頂点とする過去光円錐の内側(歴史世界)の歴史的事実として認め、仮想的な神の視点(自然決定論公理)を斥けます。そのため、その解釈では実存を基準とした可能性や時制・空間制や因果関係といった様相概念が物理の基本概念に加わります。そこで、私は【推論】や【主張5】によって示された新しい量子力学の解釈を実存主義的様相解釈と名付けました。


実存主義的様相解釈が正しければ、観測問題は解決します。なぜなら、それは測定前の測定対象の状態がどのような過程を経て測定基底に関する混合状態へと遷移していくのかを因果的に記述できるからです。たとえば、それはシュレーディンガーの猫が生状態と死状態との重ね合わせ状態ではなく生状態か死状態かの混合状態であることを保証します。シュレーディンガーの思考実験は、アルファ粒子の非到達・到達を測定するガイガーカウンターの設定に関する原因事象(本源的確率事象)が現実の観測者(いまここの私,実存)を頂点とする過去光円錐の内側で生起した歴史的事実であることを前提にしています。したがって、ガイガーカウンターの設定に関する原因事象を頂点とする未来光円錐の内側ではガイガーカウンターに向かうアルファ粒子は一般化されたボルンの規則に基づいて無いか有るかの混合状態だといえます。ゆえに、猫の状態も生状態か死状態かの混合状態であるといえます。また、実存主義的様相解釈はジョン・ホイーラーが遅延選択の思考実験において記述を断念した測定前の測定対象の状態遷移を因果的様相の変化に基づく非力学的な状態遷移としてローレンツ不変な形で記述できます(Great Smoky Dragonを覆う霧を払いその本体を白日の下に晒し出します)。



ボルンの規則の一般化

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確率事象の充足理由とは何か?


量子測定においてある測定値が得られる確率を与えるボルンの規則の発見は、「閉じた量子系の状態の時間変化はハミルトン演算子(ハミルトニアン)により一義的に決定される」という量子力学の公理(以下、自然決定論公理という)の正当性に疑問を投げかけました。ところが、物理学者たちは自然決定論公理を信奉するあまり、射影仮説というアドホックな補助仮説(観測公理)を後から付け加えてその疑問を封じてしまいました。だがしかし、アドホックな仮説は、しばしば当の仮説の反証可能性を奪い、結果的に仮説そのものの科学的な地位を消し去ってしまうので、反証主義の立場からは認められません。


我々は、一歩下がって、ボルンの規則の背後に何があるのかを再考すべきです。ライプニッツは、「どんな出来事にも原因がある」、「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」という充足理由律を提唱しました。さらに、アルトゥル・ショーペンハウアーは充足理由律を四つの根に分けて考えました。その中の一つに「新たな状態には、充分な先立つ状態がある」という生成の充足理由律があります。この生成の充足理由律を量子測定に当てはめれば、測定された純粋状態(測定値)に充分に先立つと考えられる状態は、ボルンの規則によって可能性を振り当てられた混合状態しかありえません。ここで、確率を振り当てられたといわずに可能性を振り当てられたといったわけは、「可能性が収縮して測定値が得られる」という表現が「可能性→現実」という因果関係を考慮した上で適切は表現になっているからです。つまり、充足理由律に従えば、ボルンの規則は、測定時の測定対象の状態に関する確率則から、測定前の測定対象の状態に関する可能性の規則へと一般化されます。


次に、測定装置の設定に関する因果関係へと目を転じると、そもそも測定とは測定装置の測定基底を選択する出来事が事前にあったからこそ実現する現象であり、さらにその測定基底の選択にも必ず原因あることに気づきます。そして、測定基底選択の原因事象(量子力学的確率事象)を頂点とする未来光円錐の内側の測定対象は、当然ながら、その測定基底によって測定されることが確定しています。


測定基底選択の原因事象を頂点とする未来光円錐の内側の測定対象は、当然ながら、測定直前の測定対象と全く同じ測定基底によって測定されることが確定しています。したがって、測定基底選択の原因事象を頂点とする未来光円錐内にある測定対象の状態は、一般化されたボルンの規則に基づいて可能性を振り当てられた混合状態であるといえます(:実存主義的様相解釈)。また、測定対象の状態に関する混合状態への遷移面が未来光円錐面になっているということは、この非力学的かつ因果的な遷移がローレンツ不変であることを意味しています。なお、測定基底選択の原因事象も量子測定も共に量子力学的確率事象であるという認識が示唆しているように、我々の歴史は量子力学的確率事象(確率的に現れる歴史的事実)の因果的連鎖によって形作られているということができます。



可能性の収縮

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何を見落としてきたのか?


シュレーディンガーの猫の思考実験では、箱の中の猫を覗こうとしている「いまここの私」(実存,観測者)を頂点とする過去光円錐の内側にある事実や可能性が問題になります。歴史の頂点に立つ実存にとって、箱の中の猫は、生と死との重ね合わせなどではなく、歴史的事実として生か死のどちらかに確定しています。なぜなら、そもそもこの実験は、「猫を表示媒体(ディスプレイ)として利用したアルファ粒子測定実験」であり、「生状態の猫と死状態の猫の干渉を観測するように設定された実験」ではいないからです。因果的に説明すれば、アルファ粒子測定選択の原因事象(量子力学的確率事象)を頂点とする未来光円錐の内側では、ガイガーカウンターに入射するアルファ粒子の状態は無いか有るかの混合状態なので、歴史の頂点に立つ「いまここの私」(実存.観測者)から見て、アルファ粒子の非検出,検出は歴史的事実としてどちらかに確定ており、それと対応して、猫の生,死も歴史的事実としてどちらかに確定しているということです。


シュレーディンガーの猫の実験系では、「いまここの私」(実存,観測者)を頂点とする過去光円錐の内側において、時間を前後して少なくとも2回の要素的な量子力学的確率事象が起こっています。まず、最初に起こる量子力学的確率事象は、アルファ粒子測定選択の原因事象です。そして、次に起こる量子力学的確率事象は、ガイガーカウンターによるアルファ粒子の非検出,検出事象です。下図のように、シュレーディンガーの猫の実験系をミンコフスキー図上に表すと、前記の二つの量子力学的確率事象を頂点とする各未来光円錐面を遷移面として、量子状態に関する可能性が非力学的かつ因果的に収縮する様子がよくわかります。


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現行の物理学では、観測者によって観測される前の観測対象の量子状態は、純粋状態であって、測定装置の測定基底に関する混合状態ではないと考えられています。すると当然、観測における波束の収縮はどのように起こるのかという疑問(観測問題)が生じます。この観測問題に直面した物理学者たちは、抽象自我と呼ばれる非物理的な概念や多世界と呼ばれる観測不可能な概念を持ち出して、「純粋状態は自然に時間発展する限り純粋状態のままである(閉じた量子系の状態の時間変化はハミルトン演算子(ハミルトニアン)により一義的に決定される)」という量子力学の公理(以下、自然決定論公理という)を死守してきました。
でも、ちょっと待ってください!自然決定論公理は本当に正しいでしょか?
実は、「いまここの私」(実存,観測者)に対して、我々がその重要性にふさわしい地位さえ与えてやれば、閉じた量子系であっても、その量子状態に関する可能性が収縮することはありえます。たとえば、「いまここの私」(実存,観測者)を頂点とする過去光円錐内の特定の時空領域にある閉じた量子系についていえば、次のようです。前記時空領域を脱出した時点のその量子系に対して、何等かの測定基底に基づいた測定が行われるものとし、かつ、その測定基底の選択に関する原因事象を頂点とする未来光円錐面が前記時空領域と交わっているものとします。すると、閉じた量子系であるにもかかわらず、その量子状態は、前記未来光円錐面を遷移面として、前記測定基底に関する混合状態へと非力学的に遷移するという解釈(実存主義的様相解釈)が成立します。


アインシュタインは、「私が見ていなくても、月は確かにある」といったそうです。彼がいったように、我々の歴史において、月は確かに存在します。にもかかわらず、自然決定論公理と射影仮説とを共に信じるなら、「抽象自我をもつ知生体がこの世界に誕生し観察するまでは、月の存在は確定していなかった」と主張する厳格なコペンハーゲン解釈に陥ります。また、たとえ射影仮説を捨てた(?)としても、自然決定論公理を死守しようとすれば、月が存在する多くの世界、並びに、月が存在しない多くの世界の並行的存在を主張する多世界解釈に陥ります。それに対して、物理学を除く科学全般において承認されている現実の歴史世界とは、抽象自我をもつ知生体が存在しないと思われる古生代でも、三葉虫が化石に示されたとおりに生息していた世界であり、ただ一つの月が存在する世界です。だから、物理学を除く科学全般において承認されている歴史的事実に対して、少ない歴史的事実しか認めない(三葉虫が化石に示されたとおりに生息していた歴史的事実を認めない)厳格なコペンハーゲン解釈も、極端に多い歴史的事実を認めてしまう多世界解釈も共にまずい解釈だと私は考えています。



非決定性,非力学性,因果性,量子もつれ

einstein

どこが、Spookyなのか?


決定論的な「仮想の物理世界」では、全時空にわたって歴史が確定しているので、歴史の頂点に立つ「いまここの私」(実存)は存在不可能です。
ゆえに、「いまここの私」(実存)が存在する「現実の物理世界」は、非決定論的な世界であるといえます。


物理世界を非決定論的に発展させる確率事象は、量子力学的な確率事象です。
また、物理世界では相対論的因果律が成立すると期待されます。
前者と後者から、非力学的かつ因果的な量子状態の時間発展が導かれます。


非力学的かつ因果的な量子状態の時間発展の例として、ホイーラーの遅延選択について考えてみます。1個の光子をMZ干渉計に投入した直後における干渉測定の可能性が99.999%(経路測定の可能性が0.001%)であったものとし、さらにその後、経路測定を確実に選択する原因事象(量子力学的確率事象)が生起した場合を取り上げます。その場合、「経路測定選択の原因事象を頂点とする未来光円錐面において、光子の状態が、二つの経路状態の重ね合わせとみなせる状態から、二つの経路状態の混合状態へと非力学的に遷移した。」という解釈が成り立ちます。そして、この解釈(実存主義的様相解釈)以外に、重ね合わせとみなせる状態から混合状態への遷移を因果的に記述できる解釈はありません。


量子もつれが、我々を何やら落ち着かない気分にさせている真の理由は、それが非力学的(Action at a Distance)であるからというより、むしろ、量子もつれ系の時間発展が因果的(相対論的因果律と整合的)に記述できていない(Spookyである)からだと考えられます。量子もつれ系の時間発展の因果的な記述は、実存主義的様相解釈、すなわち、「測定選択の原因事象を頂点とする未来光円錐内にある測定対象の状態は、測定基底に関する混合状態である」とする解釈によってはじめて可能になります。なお、混合状態への遷移面が未来光円錐面であるということは、その遷移がローレンツ不変であるということを意味しています。



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