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神を信じる心

hands

Albrecht Dürer's praying hands (1508)


しばらく前、私は論客コミュニティーに次のコメントを書き込みました。


未来は可能性として開かれている(決定されていない)。
各人が努力さえすれば常に希望が叶えられるなら何も問題はない。
でも現実には、我々の力ではどうにもならず、悲惨な事態を引き起こす可能性がある。
そこで、我々はそのような問題に対し良い方向に展開して欲しいと願う。
この「願う」という精神現象は、本来他者にたいしての希望であるのだが、希望を叶える他者がいない場合は、とりあえず太陽や先祖や木石などに願う。
しかし、我々は社会的動物だから、願う相手が生身の人間以外であってもそこに人格を与えるようになる。
さらに進んで、その人格が太陽や先祖や木石から昇華して森羅万象をつかさどる神と呼ばれるようになる。
しかし、それだけではすまない。
われわれは、神あるいはその使いと名乗る人物から正しい生き方を伝授してもらえると期待するようになる。
そして、宗教が生まれた。
そう、宗教はその教祖としての神と不可分だから、神は宗教ごとに特殊化されてしまった。
そのため、自分の信じる神の正当性をかけて宗教同士が戦うはめになった。

私は、自らを絶対化し他者を排斥する宗教の神を信じない。
自他の幸せを願う心に宿り、ただひたすらその願いの受け手に徹するの素朴な神を信じる。

ですから私は、お寺のお墓の前でも、神社の賽銭箱の前でも、教会の十字架の前でも、等しい気持ちで手を合わせることができます。



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