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Machine Free Will

当面、私はこのブログで、以下のカテゴリーの話題を投稿していきます。


  • TimeCommunication
  • Singularity
  • Machine Free Will
  • The Others

今日は、「カテゴリー: Machine Free Will」の第1回目の投稿です。

Kitchen Robo

もし、わたしたちが自由意志を客観的に語ることができるとすれば、ロボットに自由意志を与えることは原理的に可能なはずです。逆に、ロボットに自由意志を与えることが原理的に不可能なら、わたしたちは自由意志(の哲学や科学)について沈黙せざるをえません。


私は前者が正解だと考えています。なぜなら、わたしたちは日常生活はもとより、論理の厳密性が要求される契約や裁判などの場でも自由意志の存在を前提にして議論を交わしているからです。また、哲学や科学の考究そのものが自由意志によって支えられているからです。さらに、決定論は形而上学的な妄想にすぎないからです。


哲学が、「語りえることの限界を見極める作業」だとした場合、私は、哲学においても科学と同様に実験が重要になってくると考えています。そして、自由意志について語りえることの限界を見極めるうえで、自由意志をもつ機械を構想し、製作し、実験することはそれ以外のいかなる思弁にも勝ると考えています。


自由意志をもつ機械を製作するためには、自由意志の物理学的な定義を明確に示さなければなりません。また、Machine Free Willを確認するためには、自由意志をもつ機械と自由意志をもたない機械との本質的な違いを実験によって明確に示さなければなりません。



決定論という妄想

自由意志の哲学では必ずといっていいくらい自由意志と決定論との関係が問題になります。なぜなら、因果的決定論の観点に立って、宇宙の全ての事象が宇宙の始まりの時点の事象と因果関係で結ばれているとすると、我々の行動は宇宙の始まりの時点から決定されていることになり、したがって、自由意志は幻想だといえるからです。


決定論は、物事を予測する上で頼りになる考え方です。もしそれが正しいなら、十分なデータおよび計算資源と正しい物理法則さえ揃えば、我々は十分な精度で未来を予測できるからです。実際、ニュートン力学の大成功によって、決定論=科学的世界像といった極端な考え方が、科学者のみならず一般大衆にも深く浸透していきました。


しかし、20世紀に入って量子力学が誕生したことにより、情勢が一変しました。例えば、量子力学によれば、一個の光子がハーフミラーに入射した場合、それが反射側で観測されるか、それとも、透過側で観測されるかは、原理的な意味で確率的です。したがって、我々が観測可能な世界は本質的に非決定論的な世界だといえます。


決定論的な古典力学の成功体験に重きを置く人々が、量子力学の非決定性を見かけ上の性質とみなして、その見かけ上の非決定性を決定論的に説明できる世界像を模索したのは自然の成行きでした。ボームの非局所実在論やエヴェレットの多世界論などの決定論的世界像が一定の支持者を集めているのはそのためです。しかし、決定論は形而上学的な立場であるということを忘れてはなりません。多世界論者は、多世界論のメリットとして「宇宙論を扱える。」ということを喧伝していますが、それは同時に、彼らが「多世界論は形而上学的な世界像である。」と表明していることに他なりません。


私は、形而上学を否定はしませんが、物理学は形而下の問題を扱うべきだと考えています。そして、形而下の物理学的検証によって、我々の観測可能な世界は非決定論的であることが明らかになったのです。ゆえに、自由意志は幻想ではありません。むしろ、因果的決定論の方こそ形而上学的な妄想だといえるのです。自由意志問題は、因果的決定論という誤った世界像によって捏造された擬似問題にすぎません。


newton_leibniz

ライプニッツは、非決定論的な可能世界論を提唱しました。



自由意志の物理的定義

Machine Free Willを実現するためには、その前提として、自由意志という概念を物理的に定義しておかなければなりません。そこで、自由意志を「自由」という事態と「意志」という機能に分解した上で、まず、「自由」の物理的定義について考えてみましょう。


百科事典マイペディアには、自由とは


ある行動の実現に当たって外的障害や拘束のないこと。さらに抽象化すれば一定の因果系列について、その系列に属する原因の働きが、他の因果系列または条件に妨げられないで結果を生むことをいう。


と記されています。この定義では、「ある行動」とか「因果系列」といわれるものが、何についての行動や因果系列なのか明示されていません。ここでは、Machine Free Willを問題にしているので、主体についての自由に限定して考えることにします。ただし、主体とは自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするものです。また、上記の定義における「行動の実現にあたって外的障害や拘束がない」とか、「他の因果系列または条件に妨げられない」という表現は物理的に曖昧です。そこで、その表現を「非決定論的かつ非因果的な量子力学的確率事象により行動の選択肢を得る」という表現に修正することにしましょう。すると、自由とは


主体(実存)が、非決定論的かつ非因果的な量子力学的確率事象により行動の選択肢を得ること。


だといえます。一般に測定は量子力学的確率事象なので、主体は観測(無意識的観測を含む)によって行動の選択肢を取得しているといえます。主体は時々刻々と観測を積み重ねているので、主体は時々刻々とユニークな選択肢を取得していくと考えられます。ただし、主体の行動(思考を含む)が拘束されていて、取得した選択肢が行動に結びつく可能性がない場合は自由が成立しません。直感的な理解のために、下に示したミンコフスキー時空図上で主体の自由について考えてみましょう。


freewill_1

この図のように、各主体(アリスとボブ)はそれぞれの「いまここ」A, Bにおいて何かを観測する実存です。各主体は、それぞれの観測によって非決定論的かつ非因果的に行動の選択肢を得て、それぞれの意志機能によってその選択肢の中から行動を選択します。そのため主体の未来の行動は不確定であり、主体の世界線はより先の未来ほどぼやけて広がっています。もちろん、時空上の位置だけでなく、主体に対応する他の物理量もより先の未来ほど不確定です。

(つづく)



自由意志の物理的定義 (2)

「自由」に続いて、「意志」の物理的定義を試みましょう。前回と同様に、百科事典マイペディアから引用します。すなわち、意志とは


一般に,自発的・選択的な行動を引き起こしたり持続させたりする心的能力。


個体が自発的・選択的な行動を開始したり持続したりできるのは、個体が非決定論的に時間発展する選択アルゴリズムをもっているからだと考えられます。なぜなら、決定論なアルゴリズムに基づく選択は、原理的に予測可能であり、それゆえ自発的(創発的)な選択だとはいえないからです。そして、「自由」と同様に「意志」についても、その非決定性を保証しているのは量子力学的確率事象です。そこで、意志は物理的につぎのように定義できます。


主体(実存)のユニークな個体史において、非決定論的かつ非因果的な量子力学確率事象により培われていく選択機能。


すると、自由意志とは


主体(実存)が、非決定論的かつ非因果的な量子力学的確率事象により獲得した行動の選択肢を選択する選択機能であって、その主体のユニークな個体史において、非決定論的かつ非因果的な量子力学確率事象により培われた選択機能。


というように物理的に定義できます。もし、この定義が正しいなら、Machine Free Will は意外と簡単に実現できるようにもみえます。しかし、主体(実存)を主体たらしめる心は、自由意志以外にも意識や社会性をその構成要件としていると考えられるので、自由意志だけを切り離して Machine Free Will 考えるわけにはいかないような気もします。実際、無意識下における自由意志というのはナンセンスのように思われます。意識の問題については、また別の機会にゆっくりと考えみたいと思います。

「自由意志の物理的定義」完


bunshin

ルネ・マグリット「秘密の分身」1927年  



意識 Awareness

意志は、意識下の選択に関する選択機能だと考えられます。そこで、 Machine Free Will を実現するためには、まず、機械に意識をもたらすメカニズムを解明しなければなりません。ここで、注意しなければならないことは、機械に意識をもたらすメカニズムは解明できても、意識そのものはメカニズムに還元できないということです。よく知られたライプニッツによる「製粉所のたとえ」を、以下引用します。


知覚と、それに依存しているものは機械論だけでは説明できないということは、告白しておかなくてはならない。つまり形態とその運動だけでは説明できないのだ。そして考え、感じ、知覚するようにつくられた機械があったとしよう。その機械を各部分の比率はそのままにずっと大きくしてやって、たとえば製粉所に入るようにその機械の中に入れたとしよう。そのとき、その内部を調べてみても、いろんな部品が相互に作用しているのが見えるだけで、知覚そのものを説明するものはいっさい見つからないだろう。

Leibniz "Theod. Pref. [E. 474; G. vi. 37].", Robert Latta, 山形浩生訳


ここで、意識を下記のように定義することにします。


「いまここの私」を検証する当の私自身(個体)の作業状態


上の定義における「いまここの私」が何を意味するのかについて考えてみます。「いまここの私」という概念は、決定論的世界には存在しえません。なぜなら、決定論は世界を東京地下鉄路線図のように決定された像として捉えるので、「いまここの私」に意味を与えることは全くできないからです。実際、「いまここの私」は非決定論的世界像における概念だといえます。すなわち、「いまここの私」は未来光円錐と過去光円錐の接点として表現され、「いまここの私」の歴史は過去光円錘の中に存在し、「いまここの私の」の未来は非決定的な可能世界として未来光円錐の中に存在します。したがって、「いまここの私」は、次のようなミンコフスキー時空図によって表すことができます。

(つづく)

imakoko


意識 Awareness (2)

「いまここの私」は、過去の歴史と未来の可能性に挟まれて存在しています。では、個体自身はその状況をどのように検証しているのでしょうか。ここでは、その検証は、個体が周囲を観測して取得した観測データを自らの歴史(個体史)に落とし込むことだとしましょう。個体が観測データを個体史に落とし込むということは、観測データに個体固有の意味を与えるということです。例えば、波長650nmの赤色光を観測した場合を考えてみます。赤色光の感覚刺激は、母性や危険の象徴としての「血」,熱や活力の象徴としての「炎」, 圧迫や拒絶の象徴としての「毛様体筋緊張」などと同時出現率の高い感覚刺激です。 そこで、「血」,「炎」,「毛様体筋緊張」・・・・といった象徴群の各象徴に関する個体固有の 同時出現率のスケール軸で多次元象徴空間を張った場合、赤色光の感覚刺激はユニークな 座標へと落とし込まれます。つまり、赤色光という観測データは、多次元象徴空間へと落とし込まれることにより、個体固有の意味を付与されます。


個体は、生存に関わる多くの象徴(特定の生存条件に対して特異的に高い同時出現率を持った具体物や具体的状態)のリストを蓄積していると思われます。そこで、それらの象徴に対応する多次元象徴空間を張ったとき、そこに落とし込まれる感覚刺激はユニークな座標値をとるでしょう。このことから、多次元象徴空間の座標はクオリアに対応しているということができます。そして、一般に、個体には同時に多くの感覚刺激が落とし込まれていきますので、その多次元象徴空間の座標群(クオリア群)が、全体として個体の気分に対応する集合的なクオリアを構成することになります。このようにして、「楽しい感じ」や「可笑しい感じ」や「悲しい感じ」といった集合的なクオリアが構成されます。そして、それらは、多次元象徴空間上で相似パターンをもつ他の集合的なクオリア、すなわち、「長調の感じ」や「くすぐったい感じ」や「短調の感じ」といった集合的なクオリアと共鳴し合う事になります。


多次元象徴空間全体は、物理空間ではないので、時空上の一点に「押し込める(代表させる)」ことができます。そして、多次元象徴空間は全体として非決定論的に時間発展しています。そこで、このように多次元象徴空間が非決定論的に時間発展している状態こそが「いまここの私」を検証する当の私自身(個体)の作業状態だといえます。ゆえに、意識は次のように再定義できます。


個体固有の多次元象徴空間が、非決定論的に時間発展している状態


「意識 Awareness」完


YouTube/ Reconstruction from brain activity

GIZMODEに脳内の動画情報を抽出再生するシステムの記事があります。)



哲学を為し芸術を為すロボット

しばらく前、私は論客コミュニティーに次のコメントを書き込みました。


哲学は人に自由をもたらすのだと思います。
物理主義や信仰を離れて考えることは愚かしいことかもしれない。
しかし、その愚かしい営為こそが人を自由たらしめているのだと思います。

そして、芸術。
芸術は言葉を超えた心と心の交流を可能にします。

素人が哲学や芸術を為しても、糞の役にもたたないのかもしれない。
しかし、それらは人を自由たらしめ、人を人たらしめる営為だと思います。

もしロボットが、哲学を為し芸術を為すならば、それは人間です。


本カテゴリー"Machine Free Will"で既述したように、意識や自由意志が物理的に定義できたとしても、そのような意識や自由意志をもつだけで、機械が心をもつといえるかどうかは微妙です。なぜなら、我々が機械の心を受け入れるためには、それがもつ志向性や感受性と、我々の志向性や感受性とが相互理解可能,共感可能な程度に接近していなければならないからです。


心をもつと認められるロボットとは、人のような哲学的志向性を持ち、かつ、人が共感できる芸術を為し得る程、その多次元象徴空間の態様が人と似ているロボットです。


もしロボットが、哲学を為し芸術を為すならば、それは人間です。

robots


アンドロイドはお掃除ロボットの夢をみるか

roomba

First-generation Roomba   
Larry D. Moore CC BY-SA 3.0.   


おそらく、お掃除ロボットが意識を持っていると感じる人はいないと思います。なぜでしょうか。その理由は、お掃除ロボットが決定論的プログラムにしたがって動いているからではないでしょうか。(たとえ、お掃除ロボットがランダムとみなせる動作をしたとしても、ランダム関数にしたがって動作している限りその動作は決定論的です。)

では、お掃除ロボットがテーブルの脚などに突き当たったときに、右に行くか左に行くかの選択を量子サイコロによって決める場合はどうでしょうか。つまり、お掃除ロボット内で行われた量子サイコロ投げ(量子測定)の出目(測定値)に対応して、右に進む世界か左に進む世界かの(一般には多数の可能世界の中の)いずれか一つの可能世界が現実世界になる場合、果たして「彼」に意識がないと断言できるでしょうか。

ランダム関数に基づいてランダムに動作する決定論的ロボットと、量子測定にもとづいてランダムに動作する非決定論的ロボットとを同一の古典力学的な環境に放ったとき、両者が「偶然」に全く同じ軌跡を描いたとしても、それらの動作の間には本質的な違いがあります。というのは、決定論的ロボットの動作が最初から決定されていた動作であるのに対して、非決定論的なロボットの動作は量子測定の連鎖にもとづくロボット固有の歴史(かくあって別様ではない歴史)の一部としての動作だからです。

私やあなた(やロボット)が「いまここ」の意識を持つという事態と、私やあなた(やロボット)が非決定論的に発展する固有の歴史を持つという事態とは、互いに深く結びついているのではないかと私は直感しています。



意識エンジン

flyer

Leonardo da Vinci's study of the structure of a wing. 1490  


ちょっと一休み・・・
意識を発現する機械、つまり、意識エンジンというものについて考えてみます。
意識はなぜ存在するのか(意識の存在論)を、物理学によって追及することはナンセンスです。
なぜなら、物理学は形而下の学問だからです。
しかし、意識はどのように発現するのか(意識の因果論)を記述することは物理学の課題です。
もし、意識発現の特徴や条件を特定することができれば、それを物理的に再現することにより、(鳥の羽ばたき機能を持たなくても、人が乗って飛ぶことができる飛行機が創出できたように)人間独特の認識機能を持たなくても意識をもつ「強いAI」が創出できるでしょう。

意識発現の特徴や条件として、下記のようなことが挙げられるのではないかと私は考えています。


  • 意識は、個体ごとの「いまここ」において非決定論的に発現する。
  • 意識は、種の保存・発展に役立つ多数の象徴概念を各軸(各クオリア軸)とする多次元象徴空間に感覚刺激が落とし込まれたとき発現する。
  • 意識は、自由意志を介して外部環境に能動的に作用する。
  • 自由意志とは、非決定論的に形成される選択肢(自由)を、これまた非決定論的に時間発展する選択機能(意志)によって選択する能力である。

そこで、以上のような特徴や条件を満たす意識エンジンを構成し、AIに付与できれば、「強いAI」が実現できるような気がします。


(注)ここでは、意識を持たないAIを「弱いAI」、意識を持つAIを「強いAI」としました。

(つづく・・・かも)



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